JICA海外協力隊、突然の別れ
こんにちは、現在はビーチサッカー選手🏝️⚽️であり、JICA海外協力隊経験者のMAHOです。
順調に進んでいたラオスでの活動でしたが、ある日、全てが変わりました。
「新型コロナウイルス」
このパンデミックにより、世界の人々の生活が変わったと同時に、私を含め、全世界で活動していた当時約1,800名のJICA海外協力隊の活動もストップしてしまいました。
私は活動1年2ヶ月のところで、無念の緊急帰国を余儀なくされました。
今回は、緊急帰国の当時の様子について紹介します。
2020年3月、新型コロナウイルス感染拡大
その影響は、遠く離れた異国の地で活動するJICA海外協力隊員たちにも容赦なく押し寄せました。
「来週、帰国します」
突然の帰国命令、戸惑いと不安の中である日突然やってきました。
当時私は先輩隊員が活動を終え帰国のため、空港へお見送りに行っていました。他の隊員も含め数十名のJICA関係者が集まっていました。
出国審査ゲートの前で、帰国される先輩隊員たちを手を振って見送ったあとでした。
「え、◯◯◯(国名)の隊員、緊急帰国だって」
その場にいた、先輩隊員のLINEに同期隊員から連絡が入ったようでした。
その後すぐに、隣にいたラオス事務所の調整員さん(※協力隊の担当職員・日本人)に、
「協力隊、帰国なんですか?!」
「コロナの影響ですか?」
と質問していましたが、
「ごめんなさい、まだわからないし、連絡も来ていないんです」
と、調整員さんは答えるだけでした。
晴れやかな、そして名残惜しい別れも束の間、ムードが一転し、心がザワザワとしたまま、その場を皆であとにしました。
本部から世界各地のJICA事務所および各隊員に届いた帰国命令
それは、私たち隊員にとって青天の霹靂でした。
「え、今?」
「まだやりたいことがたくさんあるのに」
「せっかく現地の人たちと打ち解けてきたところなのに」
「これから!というところだったのに」
「あともう少しで本帰国だよ、その前に帰るの?」
「まだ来たばっかりで、活動も始まっていないのに」
戸惑い、悲しみ、そして何よりも、これからどうなるのかという不安。
様々な感情が入り混じり、隊員たちの間に動揺が広がりました。
当時、私が活動していたのは、ラオスの首都ヴィエンチャンの中心地から少し離れた郊外でした。
田舎のような、でも中心地まで近く賑わいもある土地で生活をしていました。
ラオスの人々は私が日本から来た協力隊であることを知り、温かく受け入れてくれました。
近くの市場に買い物に行き、お店の人と、言葉を交わす。
アパートの大家さん一家(父・母・当時年長の息子と3人家族)は、いつも優しく、会話で話す時やLINEで連絡をする際には、毎回Google翻訳で丁寧に接してくれました。
活動先の学校の先生のご自宅でご飯を食べたりもしました。
そして何より、体育を教えている小学校の子どもたちが可愛い。
そんな日々が、私の宝物でした。
それなのに、突然の別れがやってきました。
私は首都で活動していたので、JICA内では「首都隊員」と呼ばれていました。
ラオスでは首都隊員が一番多く、帰国時は主要空港のある首都隊員から帰国となりました。
世界各地の隊員の帰国劇は、どこも慌ただしいものでしたが、ラオスもそうでした。
実は、帰国日が二転三転したのです。
確か最初に伝えられたのは帰国は「3月25日」あたりでした。
その帰国日まで1週間はあったので、JICAラオス事務所から言われましたが、荷物整理をし始めていました。
いるもの、いらないもの、JICAに返すもの、この3つに分けるように指示がありました。
私は大体2〜3日で荷物整理を終えました。
それと同時に、活動先の先生たちや配属先である教育スポーツ局の上司・同僚たちに、帰国になったことをそれぞれ伝えました。
そして、その日はやってきました。
その日は金曜日。
金曜日は午前中に田舎の小学校にサッカーを教えに行く日でしたが、その日はありませんでした。
すると、
「明日、帰国になります」
とJICAラオス事務所の私の担当の調整員さんから電話がかかってきました。
その後すぐに自転車を走らせ、活動先の二つの小学校に向かい、明日の帰国を伝えました。
金曜日にサッカーを教えに行っていた小学校の先生にも連絡をしました。
大家さんにも説明しました。大家さんにはすでに事前に帰国については説明していたので、理解をしてくれていました。
そして、午後3時、配属先である教育スポーツ局に向かい、同じく伝えました。
「どうだった?楽しかったか?」
などと上司の課長や同僚と寂しくも笑顔を交えながら話していると、
「今日、帰国します!」
と調整員さんから再び電話がかかってきました。
午後3時30分。飛行機の出発時刻の約5時間前でした。
「今日帰国になったって(苦笑)」
と上司たちに伝えると
「そうか、そうしたら早く帰らないとな。幸運を祈る。元気でいるんだぞ!」
と送り出してくれました。
「さようなら」も十分に言えないまま、私は教育スポーツ局を後にしました。
そしてアパートに帰ると、すぐに大家さんに伝え、大家さんが車で空港まで送ってくれることになりました。
アパート出発まで約3時間ほどあり、その間に活動先の先生たちにもう一度電話をして、「今日、帰国になったよ」と伝えるとともに、これまでの感謝を電話越しで伝えました。
最後は電話越しとなりましたが、午前中に各小学校に行っておいて良かったと心から思いました。
ラオス出国〜再び戻れる日を信じて〜
アパートの大家さんは大きなマスクをつけていて、緊張感が漂っていました。
これから向かうのはすぐ近くの空港。
実は私の住むアパートは空港沿いで、空港の敷地を囲む壁がなければ、一直線で行けるほど近くでした。
当時ラオス国内での感染者数はゼロ。
それでも国際線がある空港ということで、大家さんも警戒していたのでしょう。
その大家さんのマスク姿を見て、私の背筋が伸びました。
大家さんは私を空港に降ろすと、いつものように温かく見送ってくれました。
でもどこか、やはり緊張感があって、すぐに空港を後にしていました。
空港に入ると、同じ便で帰国する首都隊員、そして手続きをしてくれる調整員さんと合流しました。
空港は出国予定の人々が多くいました。
日本人も多く見受けられました。
私はスーツケースを一つ持っていましたが、中にはほとんど荷物を持っていない隊員もいて、
この未知のウイルスに対する考え方は人それぞれでした。
私は再び戻ってこられるかはわからないという気持ちが大きく、
一方で「大丈夫でしょ?すぐ戻ってこられるよ?」
という意見の協力隊も世界各地には多くいたことでしょう。
実際、荷物をほとんど持たずに帰国した隊員はそう思っていたと思います。
調整員さんたちでさえ、どうなるかわからなかった。
全世界の皆が、先のわからない状況だったと思います。
調整員さんに見送られながら、出国審査ゲートに入り、待合室に向かいました。
待合室ではメッセンジャーの電話機能を使って、活動先の小学校の先生とその娘さんとテレビ電話をしました。
「元気にしていてね、ソークディードゥー🙏」
そして、ラオスを出国しました👋🇱🇦✈️
無念の帰国、そしてその後
日本には3月21日の15時頃に帰国しました。
高速道路から見える日本の景色を見ながら、日本に帰ってきてしまったんだと実感しました。
当時日本国内の感染者数は約200名。
「ラオスが感染者ゼロなのに」
と私の心はなかなか落ち着きませんでした。
タイの国境が帰国便の翌日には閉まってしまうため、調整員さんが必死に取り次いでくれた帰国チケット。
感謝と、悔しさと、とても複雑な心境でした。
帰国後14日間は私は自宅隔離となりました。
とは言ったものの、外出はありませんが、普通に生活をしていました。
他の国によっては、ホテル隔離や、JICAセンターでの隔離など国ごとによって対応は異なっていました。
外には綺麗な桜が咲く季節でした。
テレビに映る桜を見て、日本を感じました。
ラオスで購入したラオスのお茶を飲んだり、
ラオスの思い出を絵に描いたり、
当時コロナ禍でいろんなアーティストがSNSでメッセージ性のある曲の配信をしていましたが、その曲をピアノで弾いてみたり、
毎朝腹筋や背筋などのエクササイズをしたり、
自分が好きな音楽(励ます曲)をかけながら、
必死に生活をしていました。
それでも日本の感染者数は日に日に増えていきました。
私は当時千葉県の松戸市の実家にいましたが、
松戸市は東京寄りなため、テレビでは東京の感染者数が毎回報告されていました。
テレビ画面の右下に表示される「東京都の感染者数」
この数字を毎朝見るたびに、私の心はどんどんと元気がなくなっていきました。
隔離後、スマホを新機種に買い替えるために、久しぶりに外を歩きました。
マスクをしていない人が多くいて、とても怖かったです。
「なんでマスクしていないの?」
「なんで外出しているの?」
そう思いながら歩いていました。
有名な芸能人もコロナによって亡くなりました。
この時は、本当に東京都の人々を軽蔑しました。
「ほら、外に出てるから」
「マスクしないから、そうなるじゃん」
「知らない誰かを殺しているんだよ」
当時高齢者が亡くなるケースが多く、飛沫感染が多くなってきていました。
おそらく、この芸能人の死によって、少しずつ世間もコロナウイルスの危険性への認識をし始めたと思います。
帰国から約1ヶ月半、とても辛い時期を過ごしました。
軽く鬱状態になっていたと思います。
私は軽くで済みましたが、おそらく他の協力隊で鬱になってしまった方もいるでしょう。
連絡が一時取れなかった隊員もいます。
私たちが、それぞれに情熱を注いでいたものが、一瞬にして無くなったのです。
目の前の活動が奪われてしまったことで、生きる活力も奪われてしまったように感じました。
JICAから3つの選択肢
帰国後、JICAラオス事務所やJICA本部からの連絡が何度かありましたが、
どんな内容でもいつも連絡を待っていました。
「また戻りたい」
そんな気持ちが強くあった私には、連絡が来るたび、ソワソワしていました。
そんな中、JICAからは以下3つの選択肢が提示されました。
- 派遣期間は変わらずに、派遣再開を待つ。※派遣期間終了までに派遣再開が叶わなくても活動終了
- 一度派遣終了とし、協力隊再派遣希望登録者となる。※再派遣時に希望する派遣期間を設ける
- 現時点で派遣終了とする※活動終了、新たな道へ進む
私は、二つ目の、一度派遣終了とし、再派遣を目指す希望登録者になる道を選択しました。
「再びラオスに戻り、もう一度みんなに会いたい」
その一心でした。
ラオスの協力隊の同期は一つ目の、派遣期間は変わらずに派遣再開を待つ、という選択をした隊員も半数近くいました。
一方で、今回の帰国で派遣終了・活動終了を決めた隊員もいます。
私たち2018年度3次隊の派遣期間は2019年1月29日〜2021年1月28日で、この選択肢が出されたのは2020年7月でした。
私は、このまま派遣期間終了まで派遣再開を待ったとして、それでもいつ戻れるかもわからないし、派遣再開ができても派遣終了期間までそれほど期間がないのなら、一旦終了して、活動がスムーズにできる見通しが持てるようになったら、またラオスに戻りたいと考えていました。
その後8月9月と、ミャンマー、ネパール、カンボジアの3ヶ国が派遣再開となり、続いて12月にラオスも派遣再開となり、同期隊員含め数人がラオスに再び戻ることができました。
「本当に良かった!頑張ってね!」
同期隊員11名で再びラオスに戻ること、
同期隊員11名で活動を終えて一緒に日本へ帰ること、
これらはもう叶いません。
それでも、同期隊員が戻れたことは素直に嬉しかったです。
「私も早く戻るんだ!だからその日のために今はここで頑張る!」
改めて、強い気持ちを持ちました。

今、思うこと
あの時の経験は、私たち元JICA海外協力隊それぞれの心に深く刻み込まれています。
世界的な新型コロナウイルス感染拡大の影響により、
緊急帰国、派遣再開、再派遣など、これまで多くの隊員や隊員候補生(派遣前の隊員)が何らかの影響を受けましたが、
2024年11月、このパンデミック後に再派遣となった、最後の隊員が任国での派遣終了・活動終了となりました。
この隊員は実は同じ体育隊員で、派遣前訓練の体育隊員講習でもご一緒していた方でした。
JICA海外協力隊のインスタグラムでも紹介されていますので、
ぜひご覧ください。
突然の別れ、帰国後の葛藤、そして新たな道と新たな出会い。
あの時、私たちはそれぞれの場所で、自分たちにできることを模索しました。
そして、今もそれぞれの場所で、あの時の経験を胸に、歩み続けています。
MAHO

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