日本待機中②「ビーチサッカー」

ビーチサッカー

ビーチサッカーとの出会い

こんにちは、現在はビーチサッカー選手🏝️⚽️であり、元JICA海外協力隊のMAHOです!

JICA海外協力隊として活動していたなか、2020年3月、世界的な新型コロナウイルス感染拡大の影響により、活動開始から1年2ヶ月経ったところで、緊急帰国となりました。

目の前の情熱を失った私は、日本へ帰国後2〜3ヶ月ほど精神的にとても苦しい日々を過ごしていました。

そんななか、「これじゃダメだ!動こう!」と思い、

ビーチサッカーというスポーツに出会いました。

今回は、そのビーチサッカーとの出会い、存在について紹介します。

始まりは練習試合🏝️⚽️

元々サッカー選手であった私、

スポーツ、運動、身体を動かすこと、走ることが好きな私、

そんな私が前を向いて「やってみよう!」と思ったスポーツ。

「ビーチサッカー」

短期大学の一年先輩、のちにチームメイトになる選手が、

千葉県鴨川市を拠点とするSONNE鴨川B.S.(以降ゾンネ鴨川)に所属していました。

ラオスで活動していた際に、

先輩:「まほも帰国したら、ビーチやろうよ」

私:「うん、考えとくね〜」

と軽いメッセージのやり取りをしていました。

当時は、協力隊の活動が一番だったので、

ビーチサッカーのことなんて考えたことはありませんでした。😂

それから約1年後、先輩のチームに連絡していました。

その後、チームの監督から「〇〇日、練習試合ですがどうですか?」と連絡が来て、

当日、会場に向かいました。

サッカーでなく、ビーチサッカー。

新しいスポーツにワクワクしながら車を走らせました。🚗

するとまず一番に「え?!」となったのは、、、

先輩がその日に対戦する相手チームに居たのです‼️

「おう、まほか〜」

と先輩は軽く声をかけて、すぐに相手チームの方に行ってしまいました。

「え?!どういうこと?移籍したの?」

と自分の頭で即座に理解して、とりあえず、ゾンネ鴨川のチームに挨拶に行きました。

当時ゾンネ鴨川はその年新チームに再編成ということで、

その日は私の他にも体験者や助っ人選手が参加していました。

目の前に白い砂のコート。

久しぶりに通す、ユニフォーム。

私にはどれも新鮮で、少し緊張していたことを今でも覚えています。

試合は久しぶりのゲーム形式だったことや、

初めての砂の上でのサッカーで、とても疲れました。

けれど「楽しかった!」というのが第一印象でした。

そう、この2020年6月21日から私のビーチサッカー人生が始まったのでした。

ゾンネ鴨川へ入団🏝️⚽️

練習試合から間もなく、SONNE鴨川B.S.への入団を決めました。

活動拠点は千葉県鴨川市。

練習場所は千葉県鴨川市にある私立鴨川令徳高等学校。

この学校は学校名が何度か変更されていますが、

昔からよくドラマなどのロケ地となっている学校です。

高校の中にビーチコートがあるんです。

元々は職員の駐車場で砂利の状態でしたが、

改良改善を重ねながら今では立派なビーチコートとなりました。

実はこのビーチコート、入団当初、私も作っていました!

当時私は、協力隊の契約の関係上、仕事に就けない身であったので、

鴨川でコート作成を手伝いながら練習をする日々を送っていました。

監督がオーナーの民泊用の宿舎に寝泊まりすることもありました。

砂はすでに引かれていて(白い砂ではありません)、

周りの防球ネットや夜間ライトなどの設置を監督と行いました。

今となっては懐かしい思い出です。

大体コートが出来上がり、

その年、チームは関東女子ビーチサッカーリーグに参戦しました。

令徳高校ビーチコートでも試合が行われ、

男子の試合も行われたことがありました。

当時から日本一と言われていた「東京VERDY BS」も試合があり、

目の前で迫力があるプレーやオーバーヘッドシュートに魅了されました。

もっと上手くなりたい!その向上心の先に🏝️⚽️

チームは関東リーグや地方の大会に参戦し、私はますますビーチサッカーにハマっていきました。

11月のゾンネ主催の大会前後、来年の話がチーム内でもちらほらと出てくるようになりました。

私は協力隊の再派遣を待っている身であり、

活動は一時的なものとして私自身も考えていました。

入団時にも監督やチームメイトには状況を伝えていました。

そんななか、チームメイトの2人が移籍することになりました。

チームは「東京VERDY PRAIANA BS

あの 東京VERDY BS の女子チームでした。

チームは2021年度1月発足ということで、メンバーを募集していました。

私はそのこと自体全く知りませんでしたが、

少し心が動きました。

「やってみたい、かな。」

「もっと上手くなりたい!」

「でも、協力隊もある。」

「そして、何よりこの鴨川が好き。」

「一緒にビーチサッカーをした、大切な温かい人たちがいる。」

色々なことが頭に浮かびました。

その後2人からの希望もあり、結局は一度練習に参加することになりました。

練習拠点は東京都立川市にあるタチヒビーチ

このタチヒビーチはBBQ場であり、その施設内に白い砂のビーチが併設されています。

男子トップチームは日本代表を多く輩出しており、、

国内主要大会では負けなしの日本一のチームです。

そんな男子選手達がそばにいながら、女子チームの練習が始まりました。

新鮮な気持ちで臨んだ練習もあっという間に終わり、

その後私は、ゾンネ鴨川からの移籍を決断しました。

東京VERDY PRAIANA BS🏝️⚽️

2021年2月、東京VERDY PRAIANA BS への加入が決まりました。

チームはその年の関東女子ビーチサッカーリーグに初参戦。

メンバーも14人が揃い、週末の全体練習が日を重ねるごとに活気に溢れていきました。

ただ、まだ世間では新型コロナウイルスによる感染者や影響は残っており、

マスク着用はもちろん、スポーツの大会の開催も慎重な一年でした。

6月、7月と関東リーグの試合が終わった頃から、

国内では感染者が増加し始め、私は「そろそろまた規制があるかもな」と思い始めました。

ちょうどその頃、私のJICA海外協力隊の再派遣の見通しが立った時期でもありました。(※実はそれまでに2回ほど再派遣が延期になりました)

8月22日に関東リーグの試合が予定されていましたが、

JICAからは9月に再派遣となる通達があったため、その試合が実質私の最後の試合でした。

だからこそ、残された一日一日を大切にしようと日々の練習に励んでいました。

しかし、私の予感は的中しました。

7月の練習試合後、関東リーグの8月の試合が延期になったと連絡がありました。

「やっぱりそうなるか」

このチームでの最後の試合と位置付けていただけに、残念な気持ちはありましたが、

その日の練習試合は「最後になるかもしれない」と思い、臨み、やりきったので、

後悔はありませんでした。

元々チームには私の状況も伝えていました。

短い間でしたが、東京VERDYという大きなクラブで闘えたこと、

女子のビーチサッカーチームの歴史の1ページを刻めたことを、

誇りに思います。

数名の選手・スタッフに見送られながら、タチヒビーチをあとにしました。

待機中のビーチサッカーの存在🏝️⚽️

2020年3月21日。

目の前の情熱が失われました。

そこから3ヶ月後の6月21日。

空っぽの心に新たな芽が生まれました。

鴨川でのビーチサッカーは、私を生かしてくれる日々でした。

車で往復4〜5時間かかっても、鴨川でのコート作りや練習は全く苦ではありませんでした。

毎日が生き生きとしていて、落ち込んでいた私を救ってくれました。

以前はサッカーというスポーツに支えられていたように、

今度はビーチサッカーというスポーツが、私を救い、助け、支えてくれました。

立川でのビーチサッカーは、すぐそばに日本代表選手が居て、

本物に触れる日々を過ごしました。

その中で私はますますビーチサッカーを楽しみ、学んでいくことになりました。

JICAからの再派遣についての連絡を待ち望む一方で、

ビーチサッカーの存在はどんどんと大きくなっていきました。

再派遣が延期になり、落ち込む心を支えてくれたのもビーチサッカーでした。

あの時、「このままじゃダメだ!」と思い、

一歩を踏み出していなければ、

待機中の私はどうなっていたのだろう。

全く想像ができません。

そして何より、再派遣後に再びビーチサッカーに復帰をして、

現在も続けることはなかったでしょう。

20代後半に起きた私の人生の転換期。

ビーチサッカーはその転換期の一つの要因であり、

とても大きな存在となりました。


いかがでしたでしょうか。

私は今でも「コロナが憎い」です。

「コロナがあったから、今がある」

「コロナのおかげで、ビーチサッカーに出会えた」

とは、全く思っていません。絶対に思えません。

私には、協力隊後の進路計画がありました。

ビーチサッカーとは全く別の道です。

ですが、全て白紙となりました。

パンデミックがなければ私の人生は違っていたことでしょう。

それでも、今、私はこの道で生きています。

後悔は一切なく、自分自身が決めた選択の上で、生きています。

ビーチサッカーに出会えて、本当に良かったと心から思っています。

MAHO

コメント

タイトルとURLをコピーしました